外国船警備につく景徳

 初名守四郎光徳、後、十兵衛と称す。
 実父は木村周蔵光休。文化5年に景義の養子となり天保5年御徒頭、同7年佐渡奉行。天保9年8月、佐州百姓騒乱があり、これを鎮めた。
 「8月2被佐州百姓共就騒立為吟味被差遣但就御序無之不能拝謁之旨於芙蓉間以老中太田備後守資始被伝厳・・」(系図)と書かれている。
 同11年御先鉄砲頭を命じられ、同13年家慶公日光山御社参の供を命じられる。
 天保14年には従5位下に叙されている。
 天保15年10月、御本丸炎上の節「早速罷出指図に及び骨折り一段の事之旨老中阿部伊勢守正弘演達。」弘化2年御本丸御普請御用格別骨折り出精につき300石御加恩。
 嘉永5年3月15日には大目付、安政2年には御槍奉行となる。
 安政3年2月17日没す。


<日本歴史大辞典から>
佐渡の国天保9年一揆
 1831(天保2年)以来打ち続く凶作に佐渡の農民が免訴を願い出たが、奉行所は顧みなかった。上山田村の善兵衛は奉行所たのむにたらずとし、時機を待った。
 たまたま38年(天保9年)将軍交代の御料所巡見使が渡島する触出があった。善兵衛は、同士村山村神官宮岡豊後ら数名と図り佐渡奉行所のひ政、地役人の悪習、農民の窮状を数カ条にしたため(内容不明)、訴状を作って巡見使を待った。
 巡見使広木義太郎らは4月19日小木港へ到着、島内の巡見を終えて5月2日に佐渡を去ったがこの間に道中で訴状を提出され受理した。次いで甲使巡見使木下内記らが5月13日来島、巡見回村中に善兵衛らは更に二個条を追加して村山村市右衛門の名を以て提出した。
 奉行鳥居八右衛門は地役人に命じて、昨春大塩の乱のこともあり、農民に徒党の禁を犯さないことを諭し、善兵衛を召喚して事情をただそうとしたが、善兵衛が応じないので小木で捕らえて相川まで引き立て、取り調べたが黙秘しているのでやむなく投獄した。
 宮岡らはこれを不服として八幡宮社前に一万余の農民を集めて奉行所を襲い、善兵衛を奪い還そうとした。
 奉行所は驚いて直ちにこれを弾圧しようとしたが、地役人井口方義は農民の感情を察し、事の拡大を恐れ、善兵衛を釈放したのでいちじ事無くすんだ。
 しかし、農民はかえって勢いに乗じて5月24日八幡村名主四郎吉宅を襲撃したのを始めとし、各地に問屋富豪を襲い、8月に入っても暴動が止まず、奉行所はその都度首謀者を捕らえて投獄した。
 8月篠山十兵衛奉行は高田藩兵200人を率いて相川につき、直ちに善兵衛ら7人を捕らえて糾明すると、地役人の姦曲が一揆の原因たることを知り、地役人7人を揚屋入りとし翌年3月審理を江戸奉行に引き渡した。
 江戸へ送られた地役人、農民12人は伝馬町の獄にあるうちに、多くは病死して、判決は翌11年6月に延びた。役人側では佐渡奉行2人差控となったほか64人が処罰され、農民側では善兵衛が獄門、宮岡豊後の死罪をはじめ遠島三人その他86人処刑、また連帯で村高に応じて過料に処せられたもの二百数十か村に及んだ。この一揆は首謀者は極刑を受けたが、地役人の不正が正されたので一揆の目的はなかば達した。