
篠山氏は大原氏の一族で南山六家に属している。系図では、先祖は大伴氏であるという。諸氏の系図に違いがあり、実証はできないが、景春の祖父の代の景直のとき「・・大原庄住居於鳥居野村構小城・・」(篠山氏系図)とあるので既に篠山城は造られていたであろう。姓を大原から笹山に代えたのは、父の景元(大原蔵人)のときで、大原氏系図には元亀2年(1571)とある。年代からみて無理はない。なお、笹山を篠山と変えたのは景春のときである。
篠山氏にとって災難だったのは秀吉の天下取りへの動員である。篠山氏は甲賀士36人と一緒に織田信長に仕えていたが、信長死後羽柴筑前守に属し、尾州長久手で信雄と秀吉の合戦(天正12年4月)のおり、信雄と「通心」した疑いをかけられて失脚し、関地蔵辺りに隠れ住む身分に凋落(ちょうらく)した。
他の甲賀武士もひどい目に合うことになる。天正13年(1585)、秀吉は前年の小牧長久手の戦いで家康と組んだ紀州の根来・雑賀の一揆を鎮圧するのに、甲賀武士も動員して水攻めの堤を築かせ、それが不備であったと難癖をつけて領地没収を命じている。山一つ向こうの佐治氏はこれに抗したが、水口古城(岡山城)の中村一氏に攻められ滅亡している。篠山氏も同様で、景元の弟資忠(篠山監物)は領地を没収され「住所離散」し、後、相模に移ったと記されている。資忠の子景近は田堵野に住し、これが大原数馬氏のご先祖である。このようにして甲賀武士から領地を奪いそれを水口古城の領主に集中させ集権的支配を拡大していった。秀吉のやりそうなことである。
これらの不運を取り払ってくれたのが家康である。慶長元年徳川家康が上洛のおり召し出され、先祖の事や年来の事情を尋ねられて米千俵を賜り、近隣十郷の代官をするよう命じられている。また、秀吉逝去の後、慶長4年には沢田善三郎跡職を賜り、伊勢の郡代となり、故関安芸守居城の修理をするように命じられた。。篠山氏がどれだけ恩義を感じたか想像に余りある。
この恩義は、数年後家康の危機を救うことになる。慶長5年、家康が上杉中納言景勝を討つために甲賀郡を通過しようと石部に宿をとっていた時に、景春は、秀吉政権の五奉行の一人長束大蔵大輔が水口駅で陰謀を企てている事を知らせた。家康は長束からの朝餉の招待をすっぽかして夜中に宿を発ち、無事水口を通過し関に着いている。景春はその時褒美として「腰物」をもらった。いかにも忍者らしい働きである。事の真否は知る由もないが、家康は無事水口を通過し上杉攻めに向かうことができ、直後の関ヶ原の戦いで勝利して天下を取り、江戸時代の350年が続くのである。正に「情けは人のためならず」である。余談であるが、事後長束はこの企みを否定したが、家康は信じなかったという。
さらに慶長5年(1600)6月、伏見城籠城戦では、景春・景尚父子をはじめその家臣は多くの甲賀武士と共に戦死する。甲賀武士の竹林、高嶺、梅田、上野等、それに譜代家士である中村作右衛門その他31人が討ち死にした。墓は鳥居野の多聞寺にあり、大切に葬られている。
親子共に戦死した篠山氏の子孫がどうなったか気になることであるが、家康の功労者に対する処置は誠に温かい。江戸時代になってからその子孫の一系列はは旗本として鳥居野を領有し、篠山氏の本流は江戸に移り、幕府の要職について活躍した方もいる。9代目の十兵衛景義は佐渡奉行として活躍した。佐渡に大きな石碑があり、来歴等刻されている。10代の景徳は佐渡奉行として佐渡の一揆を鎮め、また、幕府の大目付として従5位下に叙せられている。
- 伏見籠城での篠山関係の戦死者
- 篠山理兵衛景春 篠山彦十郎景尚 杉井隆太郎政輔
- 永野宇右衛門忠孝 勝矢幸蔵英敦 和田忠五郎定治
- 岩田勝蔵英政 斎藤北郎芳昌 阿早田甚之丞安仁
- 阿部九郎左衛門直敏 小林三治郎政元 渡辺伝兵衛守信
- 注:
- 甲賀郡志や甲賀町史にならって戦死者と記載したが、実際はさにあらず。景春、景尚以外は、先祖の250回忌に多聞寺を訪れた人達である。これらの方々は江戸城警護役をしていて、伏見篭城戦で戦死した祖先を持つ人たちである。幕府から幾ばくかの下賜金を頂いてふるさとの寺で法要を営み、記念に石碑を建てている。多聞寺のほか称名寺、長福寺(田堵野)などへも来ている。長福寺には先祖とその子孫である本人の名前を連名した位牌が残っている。
- (復元者追記)篠山組の同心は250回忌墓参のメンバー(与力2名・同心5名)には入っていない。
当時元与力篠山氏は作事奉行をしており代参を頼んでいる。
<改正三河後風土記>
18日(慶長)の昼頃には大津城に着かせ給ひ今夜は石部を以て御旅館となさる。長束大蔵大輔正家水口より参上し拝謁し、明朝は居城にて朝餉を進らせたし立ち寄らせ給はん事を願ふ云々。然るに其夜戌の刻俄かに石部を立たせ給ひ、夜中水口を過ぎさせ給ふとて渡辺忠右衛門お使いとして長束方へ遣わされ云々。今夜(19日)は関の地蔵に御止宿あり。実にや昨夜長束石部へ参詣して後、その地の代官篠山理兵衛参上し、長束明朝君を水口城に招請奉るとて夥しき用意の様不審少なからずと雑説区々にて候らへば明朝水口御立ち寄りはご延引有って然るべしと蜜々告げ奉る云々。夜中笹山理兵衛道案内し吉川半兵衛宗春、土屋惣右衛門その外近習少々お供にて石部より間道を経て土山まで至らせ給ひしと也。