
史料としては寛政重修緒家譜に「闘争して人を殺害し、三河国を去りて近江国に漂泊す。」とあるだけである。系図の原文に即してかくと、
「資乗 設楽六郎太夫 三河大介 安芸守 大原祖 一云資業」
「右大将家代依為人於殺害牢籠失先祖領地属縁住江州甲賀郡大原郷」
移住した年については、勝井系図に「承元3年(1207)4月三河国設楽郡より移る。」と書かれているが、時代が下り過ぎの感がある。
「資乗 設楽六郎太夫 三河大介 安芸守 大原祖 一云資業」
「右大将家代依為人於殺害牢籠失先祖領地属縁住江州甲賀郡大原郷」
移住した年については、勝井系図に「承元3年(1207)4月三河国設楽郡より移る。」と書かれているが、時代が下り過ぎの感がある。
篠山系図で見たとおり、俊実の子供は非常に多い。系図を信じれば男子だけでも8人いて資乗は3男である。兄弟みな戦歴赫々たるものあり、次男資隆4男実時は、文治5年(1189)頼朝に従い奥州藤原泰衡追討に加わり手柄をたてており、6男資満は承久3年(1221)墨俣川や宇治川で戦傷を負い勲賞を得ている。このように兄弟がそろって幕府側について活躍しているのになぜ資乗だけが取り残されているのか不思議である。しかも、資乗を始祖とする家系を持つ家はむやみと多い。多賀氏、隠岐氏、中井氏、上田氏、高屋氏、滝川氏、垂井氏、中上氏、櫟野氏、増井氏等々37氏に及ぶ。これは勝手な想像に過ぎないが、善男にしろ資乗にしろ挫折した人物には子孫が漠然とするところがあり、そこを系図屋に利用されたのではないかと考える。